坂本あんらくの整体
私が整体を学ぶずっと前の十代後半から、筋肉の発達と体脂肪を減らすこと、骨の発達に向き合っていた過去があります。
当時は飽きることなくいつもそれらのことを考え続けていました。
私が会社に勤めていた頃、祖母は整形外科を何か所も変えていました。
車の免許を持っていない祖母は主に母親に送り迎えをしてもらい、たまに私も送り迎えを手伝っていました。
先生の言われる通り整形に頻繫に通っていたのですが、気付くと祖母の関節は痛みを訴えることが頻繁に、そして内容は深刻になっていました。
特に股関節を動かすと我慢強いはずの祖母が声を上げていたほどです。
その数年後に病気も悪化して、祖母は永遠の旅に出ました。
「高齢者の病気や関節痛はどうすることもできない。」と私の目には映っていました。
当時の私は整体学校で学び始めたばかりでしたが、十代からの試行錯誤で筋肉や体脂肪のことを熟知しているつもりでいました。
元気な頃の祖母を思い返しては思い出に浸っていました。
私が幼い頃、祖母と祖父が田んぼで稲作をしている時、幼い私が小さな用水路を渡れないでいると祖母が後ろから「ほっ」と私の脇を抱えて飛び越えさせてくれたり、川にいる生物が私は好きだったので一緒に網ですくったり、そんなことをよく思い出していました。
頭の中では元気だった祖母と病床で寝たきりの祖母が入れ替わり出てきました。
目を背けたかったですが、記憶の中の祖母にもっと踏み込んでみました。
祖母は病気になる前段階では、膝と股関節の痛みと坐骨神経痛を治せないでいました。
そして、痛みで歩くことが困難な状態が病気を加速させていたことに改めて気付いたのです。
整体を学んでいましたが、祖母の膝と股関節の酷い痛みはそもそも「変形性」と名が付いているので治せないものだと思っていました。
「“変形性”はお医者さんの仕事で整体師の受け持つ症状ではない。」と通り過ぎていましたが、そこにひっかかりを感じたのです。
『本当に治らない症状だったのだろうか?』という考えが浮かんだのです。
思い返すと、整形の先生は「骨折したらどうするんですか?運動しないでください。」「痛みがあるなら薬を飲んでください。」「痛みが全然引かないなら注射しましょう。」と、レントゲンを見せてもらって納得していましたが、それらは整形の先生の観点からの話であることに気付いたのです。
自分の学んでいた整体は整形とは全く違うものであっていいのだと気付いたのです。
「祖母の“変形性”からの痛みでもよく出来たんじゃないか?」という小さな可能性に気付き、整体師の道を自分に再度確認したのでした。
私の人生の退路を断った形での整体の学びは、先輩方よりも私の方が覚える早さも手技の正確さも違うことに気付いたのです。
努力が確実に報われる。というか、教わったことは簡単に出来てしまう、という現象が起こったのです。
整体を教えていただいていた先生方からも私の技術は太鼓判を押されていました。
やがて「自分は整体の才能がある。」と天狗になり先生とひと悶着起こしながら整体学校を卒業しました。
その後、出張の整体を開業して天狗の鼻をへし折られ続ける毎日が続きました。
どんなに辛くても「整体は辞めたくない。」という執念のような気持ちだけを持っていました。
整体技術を高めたら楽になると、整体に限らず怪しいセミナーに参加したり、気が滅入るようなトレーニングを続けたり、時間と費用を無駄のようにかけていました。
我武者羅にあがいて、整体師としての力を積み重ねていきました。
しかし、突き進めば進むほど何をどうやっても治せない患者さんと数多く出会うことになったのです。
その頃には天狗の鼻は無くなっていましたが、心が折れたことは数知れず‥。
幾回、自問自答しても「自分には整体しかない。」という答えしか出ませんでした。
自分のこだわっていたことや時の流れも忘れ、ただ一点を見つめて整体と共に生きていました。
おばちゃんの関節痛のことをすっかり忘れ、その忘れた頃に以前おばちゃんが治せないでいた関節痛を治せるであろうことに気付いたのです。
「そういえば‥今なら‥、おばちゃんの関節痛‥、治せるな‥。」と思ったものです。
100%とは言えませんが、不調から抜け出して体も心も回復した生活をあなたに提供できます。
様々な経験をした私は整体院福粋という場で、回復力を育てて悪循環から抜け出す整体を行っています。